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執筆者の写真くま ぼん

[地方紙から]西京府の新嘗祭

[惟神新報]去る廿三日、西京府の大内裏に於いて新嘗祭が恙無く執り行はれた。紫宸殿近傍の神嘉殿は浄闇に包まれ、例年通り聖上御自ら新穀を諸神に供進あそばされて収穫を祝つた。また日本六十余州においても例年通り催行され、全国が神事の日となつた。


 新嘗祭の起源は遥かに神代まで遡る。すなはち初めて帝位を定めた神武帝の御代に嘗した記事が『日本書紀』に示され、これが新嘗祭の原型とされてゐる。単語として「新嘗」が使はれた初出は同じく『日本書紀』の仁徳帝四十年条まで下るものの、いづれも律令国家以前より収穫感謝の祭が行はれていたことを示すものである。その後律令によつて国家祭祀として形式が整へられ、戦国の世の中断を挟んで現代に残つている。

 なほ、現在の神嘉殿が造営されたのは寛政三年(西紀1791年)で、これは内裏の七度目の再建に際して同時に復古されたものである(より厳密に言へば、嘉永七年(西紀1853年)の御所やけの二年後に再建されたものである)。

 ところで、なぜ十一月廿三日に新嘗祭が執り行はれるのだらうか。実は新嘗祭の催行日は、本来「十一月の二ノ卯の日」すなはち十一月の十三日から廿四日のいづれかとされてゐた。ところが御一新の一環で暦を西洋のもの(いはゆる新暦)に改めた際、これが従来の日取りでは新暦一月となつてしまう。よつて慶應九年(西紀1873年)の新嘗祭は新暦を基準に二ノ卯たる廿三日が選定され、以来この日に固定化されたのである。新嘗祭は農耕民族である日本人にとつても殊に大切な祭事であることから、御一新後この日は祝日とされて現代にも受け継がれてゐる。


 新嘗祭当日、弊社所属の記者たちも各々の神社で神官として祭を催行してゐた。彼らが口を揃へて言ふには「作物の豊穣を諸神に感謝することの大切さや尊さを、現代の人たちにも是非分かつて欲しい」とのことであつた。農家の皆様の努力やかけまくもかしこき諸神の霊威に思ひを馳せて、今年の新米を頂かう。

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