8月第1週、月遅れの七夕の夜。弘前市街地を巨大な灯籠が光り輝きながら練り歩く。国指定の無形民俗文化財としても名高い、弘前ねぷた祭りである。古今東西の逸話に取材して作られるねぷたはどれもが個性的で、盛夏を威風堂々と盛り上げる。
この祭りの起源は未だ判然としない。従来の俗説では坂上田村麿による蝦夷征伐の逸話が挙げられていたが、近年では田村麿の行動圏内に同地が含まれていたか疑問視されている。他の有力説は七夕祭りの灯籠送りを起こりとするもので、開催時期からも七夕との関連性が高いと思われる。他方「ねぷた」の語彙については概ね一致した見解が得られており、七夕祭りで行われる「眠り流し」の眠りから転訛したと考えられている。
巨大な灯籠が世に出てきたのは16世紀末の文禄年間とされ、都の津軽屋敷で行う盂蘭盆会にて2間すなわち約3.6メートル四方の大灯籠を用いたという。津軽地域で運行されたのは1682年であると記録が残されており、弘前八幡宮祭礼に際して神輿の露払いとして山車を運行したらしい。1720年には5代当主による「眠流」高覧の記事があり、1739年以降「祢ふた」の語が用いられていることが確認できることから、この頃にねぷた祭りが成立したと言えるだろう。以降喧嘩の種になるとして度々禁令が出されるものの祭りは継続して行われ、万始年間初頭の禁令期間を挟んで今に伝わる。この時期のねぷた祭りでは町道場などの若者が多く練り歩いており、他道場や町会のねぷたと遭遇すると投石や竹槍・木刀などによる乱闘が行われた。こうした乱闘を「ねぷた喧嘩」、或いは「喧嘩ねぷた」と呼ぶ。前述の禁令も、こうした状況に基づくものであった。こうした経緯は今でも名残があり、ねぷたの肩(側面部分)に「石打無用」と書かれる事がある。
弘前ねぷたの特徴は扇型を呈することである。尤もこの形は近代以降定着したもので、それ以前は箱型であるとか、人形型(組ねぷた)が多数を占めていた。扇型の正面は鏡絵・人形が飾り、裏面を見送り絵が彩る。正面下部の台形部分は開きと呼ばれ、大抵は津軽家家紋の津軽牡丹が描かれる。両側面は肩と呼び、先述の石打無用や所属町会などが書かれている。この中に蝋燭(現在は電灯)が仕込まれ、豪華絢爛なライトアップを施すのである。
練り歩くねぷたの先頭は「津軽情っ張り大太鼓」と呼ばれ、威勢のいい音を響かせる。津軽信義の大太鼓伝説に基づいて1970年に復元されたものであるが、その直径はなんと10尺すなわち約3.3メートルにも及ぶ。これを弘前で打てば遠く新田に届くといい、後に非常用として江戸屋敷に備えた際には大江戸八百八町に響き渡ったと伝わる。真贋は定かではないものの、祭りを大いに盛り上げる一助となっていることは疑いようのない事実である。
祭りは毎年8月1日から7日まで行われた。絢爛豪華なねぷたと堂々たる太鼓の音に圧倒されながら、奥羽地方の短い夏は今年も過ぎてゆく。
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